Привет!!! (プリヴィエト)
前回、リトアニアの歴史に触れ、KGBやナチスドイツ占領下に
ユダヤ人が弾圧を受けていたとお伝えしましたが、今回は
そのような時代にリトアニアで多くのユダヤ人を救った日本人が
いたことをご紹介します。
その人物の名は、杉原千畝。日本のシンドラーと呼ばれています。
ていた日本の外交官です。
当時の領事館が今は杉原記念館として保存されています。
そして、この旧領事館の入口の門には『希望の門 命のビザ』!
1940年7月18日早朝。杉原千畝は、領事館の外の騒々しさに
目を覚ましました。2階の寝室から外を見てみるとそこには
約200人ものユダヤ人が何かを必死に訴えかけていました。
渡米を考えていました。しかし、そのためには日本の通過ビザが
どうしても必要でした。
そのため、カウナスの日本領事館に押し寄せていたのです。
では、杉原記念館に入ってみましょう!
中に入ると館長さんが出迎えてくれて、さらに杉原千畝に関する
ビデオを見せてくれます。
もちろん多数の資料も保存されています。
さて、押し寄せるユダヤ人の人だかりを見て、杉原は悩みました。
なぜなら、パスポ-トを持っているのは一部、渡航費用も十分に
ない、さらに日本は日独伊3国同盟を結ぶ直前と言う時代背景。
【杉原が実際に使用していた仕事机】
ここで相当悩んだんだと思います。
なぜなら、日本政府にビザ発給許可の申請をしても応えは『否』。
政府に背けば、外交官としての仕事を失い、家族共々反逆罪に
問われる可能性もあります。
しかし、杉原はビザ発給を決断します。
『一人でも多くの命を救いたい!』
そう決意した杉原は昼夜を問わずビザを書き続けました。
当時はもちろんすべて手書きです。
カウナス領事館の閉鎖が決まり、リトアニアを離れる際も、杉原は
列車内でビザを書き続け、車窓から最後の一枚を渡したのでした。
杉原が書いたビザは約2000。救われた命は6000以上と言われ
ています。
『私のしたことは外交官としては間違ったことだったかもしれない。
しかし、私には頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることは
できなかった。たいしたことをしたわけではない。
当然のことをしただけです。』 -杉原千畝手記より-
当然のことをする勇気・・・。凄いです。
杉原記念館では、当時の日本の通過ビザに押していたスタンプを
押してもらうことができます。
この杉原記念館には日本各地から訪問者が後を絶ちません。
ちなみに私の実家は埼玉県の大宮の少し北部にある小さな町。
なんと旗が立っていなかったので、ちゃんと立ててきました!!
リトアニアで人間の誇り、日本人の誇りを再確認しました。
皆さんも是非一度訪れてみて下さい。
では、пока(パカ)!