
1月22日
6時朝食、6時半出発
約20分程でクイーンズランドとノーザンテリトリーの州境に到着。
ノーザンテリトリーを省略してテリトリーと呼ぶ。
時計を30分遅らせる。
ノーザンテリトリーの人には怒られそうだがクイーンズランド州の州都、ブリスベン生まれのダン曰く‘5年と30分遅らせるという感覚’、だそうな(^_^;)...テリトリーの方ごめんなさ~い。
その後は行けども行けども真っ直ぐな道。
ストップして気が遠くなりそうな(^o^;)道を見渡す。
道路前後で、合計40~50KM先まで見えている計算になる。
バークリハイウェイ…
本当に平たい何もないオーストラリアのアウトバックを、ただひたすら走る。
以前はスピード制限なし法規の道路だったが、ドイツ人旅行者が、チャンス!とばかりに時速200kmで走って事故ってから制限速度ができて、今は普通車は時速130km、トラックは時100kmに制限されたとのこと( ̄_ ̄ i
景色の変わらない車窓...そしてトラック改造バスの心地よい振動に身を任せていると、目を閉じて、じぃ~としている猫
のように、ふわふわと心の旅をしている自分がいる。
過去のことが脈略もなくふわふわ
と心をよぎって行く
さらに進んでバークリーカトゥルステーション(バークリー農場)を突っ切っていく。
バークリーカトゥルステーションはオーストラリアで1番大きい農家で、おおよそ12254平方キロメートルあるそうだ。
(ちなみにクェートの国土の総面積は18000平方キロメートル)
アウトバックの農家の子供たちの教育は?というと、、、
小学校は‘スクールオブザエアー’、つまり無線の小学校で、自宅から無線で授業を受ける。
アウトバックの誇る‘スクールオブザエアー’は世界で1番大人数のクラスだ。
アウトバックの子供たちは、スクールオブザエアーの小学校が終わると、親元を離れて街場の寄宿学校へ行く。
たいていのアウトバックのカトゥルステーションは、だいたい16人ぐらいの人数で運営されている。
それぞれの特技を生かして、農業から車、農機の修理まで、すべて自家で賄うような暮らしを運営している。
買い物は
加工食料品などは、大きな街から1~3ヶ月毎に大量に仕入れるとのこと。
また、肉は隣の農家と交代で1頭の牛に犠牲になっていただいて、分けっこし合って賄っているとのこと。
街場のようには店も物もなく、助け合わないとやっていけないアウトバックの暮らしぶりの中で、しっかりと育っていく子供たち。
‘スクールオブザエアー’出身の子供たちは街の学校へ移った後、街の子供たちを抜いて、とても優秀な成績
を収めることが多いそうだ
バークリーホームステッドロードハウスで給油と休憩
は、ティアに毎日高いポテトチップスやソフトドリンクを買わされている(T_T)...物の値段はアウトバックでは街の3倍ぐらい
休憩中、道路近くまで歩いていって、ロードハウスの全貌の記念写真
を撮る。
道路からロードハウスに進入するドライブウエイ入り口に、大きなキャンバスバックが置き去りにされている。
バッグのまわりには、石鹸や歯ブラシなど落ちてる。
変だなと思い、ロードハウスに戻り、ショップの人とドライバーのダンに伝える。
‘だれかが忘れたんでしょう、きっとすぐ取りに戻ってくるよ’と、2人ともオージー的に気にしない。
ふ~ん... ┐( ̄ヘ ̄)┌ そんなもんかね...
だんなのロイドは、レイジーエアログラム(怠け者のエアログラム)を買って、妹家族にレターを出したりしていた。
これは中側に写真や文章が書いてあり、宛名だけを書けばいいなまけもの向きのシロモノ。
掲示板に、ヒッチハイカーのニュージーランド人旅行者の行方不明者の呼びかけの紙が張ってある。
このニュージーランド人は2ヶ月ぐらい前に、忽然とアウトバックから消えてしまったらしい。
アウトバックは広すぎる...
道を間違えたらだれにも会わないし、食料も水もないし、もちろん携帯も通じない。 いったいニュージーランド人の彼に何が起こったのだろう...か。
さて、さらに西に進んでステュァートハイウェイとのTジャンクション、スリーウェイズへ。
スリーウェイズロードハウスで、自分で作るランチを、アリスへ行く仲間も一緒に食べる。
ランチの後、アリスへ行くドライバのーローリーに別れを告げて出発
ローリーは、前回我々がアリスのツアーに参加した時のドライバーだった。
ローリーたちはスチュアートハイウェイを南へ、我々はステュアートハイウェイをひたすら北上
するのだ。
我々は今日、合計で、今夜の宿泊地の‘デイリーウォーターズ パブ’まで、なんと 950KM、走ることになる。
スチュアートハイウェイは2006年12月末までは、全く制限速度のない道路だった
が、今年1月からテリトリー交通法が変わり、他のオーストラリアと同じような法規になり、制限速度130KMになった。
全長2834KMのハイウェイが、全部完全に舗装されたのも、つい1980年代のことだ。
ステュアートハイウエイの名前は、ジョン マクドール ステュアートさんからきている。
彼はアデレイドからダーウィンまでの道をトレイスした最初のヨーロピアンだ。
が彼の冒険を簡単にお話しますと、、、
9人兄弟の1番下のジョン スチュアートはスコットランドで生まれました。
スチュアートのお父さんは退役軍人でしたが、スチュアートが10代のはじめ頃亡くなってしまいました。
1838年にスチュアートは23歳でオーストラリアに移民し、地図作りの仕事に就きました。
スチュアートは168CM、55KGという華奢な体格でしたが、1858年5月43歳の時彼は地図作りの目的でアデレイドを出発しダーウィンへ向かいました。
途中クーパーピディーあたりまでは行きますが、アボリジナルたちに会い、殺されるかと怖くなり、退散、アデレイドに戻ってしまいます。
クーパーピディーに、オパールの宝の山が眠っているなどとは、だーれも知らない時代のことです。
スチュアートは南オーストラリア州政府に地図を作る調査を申し出て、補助金を出してもらいます。
3人と14頭の馬のパーティーをつくって2度目の挑戦をします。
が、やはりアボリジナルに殺される恐怖によって、また退散、アデレードに戻ってしまいます。
そして3度目、懲りずに挑戦し、ダーウィンに向けてまた出発します。
挑戦する度に足跡を伸ばしては行きますが、いつも何かのトラブルで戻ってしまい、4度目、5度目と挑戦の旅を重ねていきます。
1862年1月8日、6度目に10人と71頭の馬のパーティーで出発します。
新鮮な野菜など食べられない、乾いたアウトバックで、唯一、ポーチュラッカーという食べられる植物があります。
ジョンさんは、野菜の代わりにポーチュラッカーを食べ続けなければならなかったのですが、その植物を食べることにあきてしまったジョンさんは、真剣にビタミンを摂ることにたいして、なまけてしまったのでした( ̄* ̄ )
そして、最悪なことに、極度なビタミン不足による病気、壊血病に罹ってしまい、徹底的に身体を壊してしまいます。
それでも、ついに、1862年7月24日にダーウィンに辿り着く事ができました。
目的は達成しましたが、結果的には病気は回復しませんでした。
その後アデレードに戻った後、さらに故郷のスコットランドに帰ります。
が、スコットランドに帰って4ヶ月後に、壊れた体調は結局戻らず、弱っていって、亡くなってしまうのでした(T_T)
アデレードからダーウィンまでの道路は、最初にトレイスを付けた彼にちなんで、ステュアート ハイウェイと名付けられました。
その他にも彼にちなんだ名前の地名があります。
キャンベラのスチュアート通り。
1933年にアリススプリングスという名前に変わる前は、アリススプリングスもスチュアート町(タウンオブスチュアート)という名前でした。
スチュアート物語おしまい、ご清聴ありがとうございました
テレグラムメモリアム(通信開始記念)のオベリスクで休憩。
夕方、有名な‘デイリーウォーターズ パブ’に到着。
とってもとーってもへんてこなパブ( ̄ー ̄;
装飾品がアートと不用品(ゴミ)の差のきわどい、ヒストリック パブだ。
まずは、大ジョッキのビールで乾杯


こんなおかしげなアウトバックのパブで1夜過ごすのも、おかしなに似合っているかもなぁ、、、と思う。

クソ暑いし、頭もアウトバック的に飛んでるし、夢なのか、旅なのか、楽しい冗談なのか、ふざけているのか、まじめなのか、そんな形容しがたい超ファジーな感覚は、なぁ~んともそれなりに心地よいものだ。
夕食はバラバーガー(白身魚のバラマンディーのバーガー)。
うっ、うまいっ(T▽T;)
旅、、たび、、タービー、、あついしぃ、、なんなんじゃここは、、
とろりとろり、いつの間にか夜も更けて゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚
(4日目につづく)