皆さん、こんにちわ。

今年は第二次世界大戦の終結から71年、来年には第一次世界大戦の終結から100年になります。

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オランダの有名な文学「アンネの日記」は、戦時下でナチスの迫害から逃れようと隠れ家に潜伏していたユダヤ人の少女アンネ・フランクの書き残した日記です。13歳6月の誕生日にもらい15歳の8月に逮捕されるまでの約2年の間にページを継ぎ足しながら書かれました。感受性の豊かな、かつ平凡などこにでもいる少女が、緊張を強いられる極限状態の中で、精神的な成長を遂げて今に語られる「アンネ・フランク」の言葉を紡ぎだしていきます。

彼女の父親オットー・フランク氏はドイツ系ユダヤ人で、第一次世界大戦中はドイツ軍将校として戦い、本人も当時はドイツ人としての意識が高かったといいます。

その祖国がナチス・ドイツの台頭を迎えユダヤ人を迫害しだし、家族や友人に危険が迫ると彼は亡命を決意します。それはただの引っ越しではなく、愛して信じた祖国とそれまで築き上げた生活の全てを捨てる苦渋のものでした。

妻と幼い娘二人を連れアムステルダムに落ち着くと、フランク一家には平穏が訪れます。オットー氏は非常に幸運だったといえます。当時ユダヤ人の多くが命の危険を感じ、同じように亡命を図りながらも上手く脱出できたのは全ての人ではありませんでした。仕事先や受け入れ先がなければ亡命は認められず、祖国に強制送還になることもあったのです。

また、オットー氏の場合はアムステルダムのプリンセン運河沿い263番地の建物に移した自分の会社の裏にもう一軒家がそっくり建っていたことも彼を助けました。前からは全く見えない、そして裏からはこの表の家の裏側に見えるこの「後ろの家」がのちにフランク一家と他4人の計8人のユダヤ人を匿う隠れ家として使われることになります。

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ナチス・ドイツがオランダを占領し、ユダヤ人迫害の手が伸びる中でフランク夫妻は娘たちをイギリスの親戚に預け、逃がすことも考えます。しかしフランク氏は家族がバラバラになるべきではないとその決断を避けます。彼にとって家族との幸せが一番守りたいものでした。

この隠れ家での生活が発覚し1944年8月に逮捕されると、9月にはポーランドのアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ送られ、そこで男女別の選別が行われます。オットー氏と家族との最後の別れでした。

姉マーゴットとアンネはベルゲン・ベルゼン強制収容所に送られ、そこで偶然出会ったオランダの友人ハンネに、「両親はきっともう死んでしまった」と絶望した思いを伝えています。その後、1944年3月にはアンネもマーゴットも腸チフスで亡くなったと考えられています。

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事実は、病気を患いながらもオットー氏は生きていました。アウシュヴィッツ強制収容所が1944年1月に解放されると、まだ若い二人の娘の生存を信じ、彼は回復するとオランダを目指し2か月近くかけて終戦間もないアムステルダムに帰還します。戦時下でサポートしてくれた人々に支えられ、彼は娘たちとの再会を待ち望んでいました。(妻が亡くなっていたことは解放後に他のユダヤ人の知らせで知っていました。)しかし彼の家族は帰ってきませんでした。

そして残されたアンネの日記を初めて開き、彼は娘の深い思索の軌跡に初めて触れるのです。知らなかった娘の声を初めて聴くのです。

なぜ人は憎しみ合うの、神様は愛し合うように人を生み出したのに。

そう綴ったアンネはユダヤ人に向けられる蔑視だけでなく、生きる人類全てが向き合わなくてはいけない「本当の自由」について考え続けていたのです。

オットー・フランク氏は1980年8月19日、91歳で亡くなるまでアンネの言葉を世界に伝えるために運動を続けました。公開されたアンネの家は家具などを再現しないでがらんどうの空間として展示されています。それは奪われた幸せな生活の象徴としてなのです。守れなかった家族への想いをずっと胸に抱き続けたことでしょう。

また世界中で暴力と無理解が戦乱の嵐となって吹き荒れています。恐怖の中で人々が縮こまっています。そんな今だから、「アンネの日記」を手に取って読んでほしいと思います。

by スノーウィーsnow

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