☆★☆★バリアフリー・サイパンデスク★☆★☆
こんにちは。
今日は雨もあがり、梅雨の中休みといった感じですね
さて、前置きはさておき、昨日から御案内している
『サイパン慰霊巡拝ツアー』について、早速つづきを
お話したいと思います
◎<2日目・5月30日>
睡眠時間が短いながら、私もKさんもぱっちり7時半には
起床をし、まずは腹ごしらえということで、ホテルのレストランへ
向かいました
昨日もお話しましたが、Kさんは、舌にも麻痺があるため、
食べ物をうまく口にいれることができません。
普段は、ミキサーでどろどろにしたものを食べていらっしゃる
ということでしたが、さすがにミキサー食はできなかったので、
そこにはおかゆがあったため、それを召し上がりました。
行きの電車の中で、毎日コーヒーとオレンジジュースを飲む
という話をしていたので、もちろん、セットでご提供
食事中、急にスコールが降ってきて、一瞬、ツアーは
行けるのかと思いましたが、10分くらいでやんで
くれました
食事を済ませ、少し部屋で休憩をし、いざロビーへ
アロハシャツがとってもお似合い
まずは、慰霊碑などにお供えするための、お花を買いに
花屋へむかっていただきました
そこで、ユリと菊をまぜてもらった花束を、2つ購入し、
まずはサイパン島南西部、チャラン・カノアにある、
『日本人戦没者の碑』へ。
途中、海岸線を走っていると、そのビーチは、
「ランディングビーチ」という名前らしく、そこから、
アメリカ軍が上陸してきたことから、その名前がついて
いるそうで、そこかしこに、戦争の名残があることに
驚きました。
「日本人戦没者の碑」は、いっけんすると通り過ぎて
しまうような、交差点の一角にあり、特に仰々しく
作られていないことが、逆に当時の空気が感じられ、
背筋が伸びる思いを感じました。
ドライバーのロッドさん
このあたりには、「南洋興発」という、製糖工場が
当事あり、たくさんの日本人が働いていた。
その工場跡地が学校になっていたり、社員であった
日本人が住んでいた村には、当事のまま家が
残っていたりと、戦前の生活が垣間見れる
場所でした。
日本人が多く住んでいたということもあり、神社も
あったようなのですが、いまは教会が建てられ、
墓地には、カトリックのお墓が華やかに並んでいる中、
なんと鳥居だけが残っており、当事の面影を残していました。
*ちなみに、サイパンの島民は、9割くらいが、カトリック教徒
だそうです!
写真のとおり、当事は高床式だったみたいですね。
屋根は、雨水を貯水するため、きれいに落ちてくるトタンを
利用していたらしく、よく考えられているのだなと感じました。
チャラン・カノアから、また南下して、現サイパン国際空港ある、
『アスリート飛行場跡地』に移動をしていき、
『日本軍爆弾格納庫跡』を見学。
天井には、爆弾を運ぶためのレールがそのまま残っており、
そこから戦場に向かって、「■隊、●●爆弾、○個!」
といって、運んでいったようです。
ただ、この場所も、アメリカ軍に占拠されてからは、
日本本土の爆撃に利用された爆弾などは、ここから
運ばれていったそうです。
なぜ、アメリカ軍は、サイパンを占領したかったか。
日本へ攻撃するための、燃料や武器補給に、ちょうどよい
場所だったからなのです。
ちなみに、この「アスリート飛行場」から、あの「B29
爆撃機」が、日本に向けて飛んでいきました。
このアスリート飛行場跡地には、格納庫のほかに、
航空機用の魚雷や、戦車など、当事使われた武器、
発電所や酸素製造工場の跡がそのまま残っており、
戦争は本当に終わったのか、という錯覚に陥りそうに
なりました。
戦車の向こうに見える赤い花は、「南洋桜」とも呼ばれている、
フレイムツリー(火炎樹)
今がちょうど見ごろの時期で、草や木の緑と、青い空に、
真っ赤に咲いたフレイムツリーのコントラストが鮮やかで、
とてもきれいでした
とまあ、長くなってしまってますが、まだ午前中の行程で、
半分くらいしか進んでいない。。。
次回は、この続きからすぐに開始いたしますので、
ご期待ください
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