紀元前三世紀、燕の昭王は人材を招くため、燕都に大金の入った黄金台を設け、天下の名高い人を招聘しようとした。『水経注』、『長安客話』、『帝京景物略』、『宸垣識略』などの書籍には、黄金台の場所を記載しているものの、その位置は一致しておらず、七、八箇所もある。『旧都文物略』には金台夕照の石碑が倒れた写真が載せてある。その石碑は乾隆皇帝によって建てられ、その場所は今の朝外小荘の北にある。また、そこにはいまでも「金台路」という地名が残っている。地下鉄十号線が建設される時、乾隆による石碑が出土し、昔を偲ぶために地下鉄の金台夕照駅の西側にある広場に立てられた。
金の章宗がなくなった後、道陵に埋葬されたので、そのスポットが道陵夕照と呼ばれるようになった。『長安客話』にはこういうような説明がある。「都の黄金台は朝陽門から堀沿いで南へ行き、南東の隅に着くと、そこには大きな土山がある。夕方の時、寂しそうな雰囲気の中で、その台に登り、遥か昔のことを偲ぶのは感無量である。都の「金台夕照」というのはこのことである」金台の地勢が比較的に高いため、毎年の春分、秋分前後、日が沈んだあとも少しの間日差しが残っている。これは、一種の自然現象に過ぎないが、ある日、乾隆皇帝がここを巡視したとき、この景色が気になった。ここが苗家の土地だということを知り、地に恵まれる苗家が朝廷のためにならないのではないかと心配したそうだ。その後、地名を「金台夕照」と改め、また、苗家の風水を妨げるため、その場所に石碑を建てた。これは「金台夕照」という名前の由来。
李寧
6月26日