時空を越えた長編シリーズ(笑)のこれまでのあらすじはこちら 。
ペルッツィ家が流れ着いた街、
サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ。
ヴァルダルノとは、ヴァッレ・ダ・アルノというアルノ渓谷の街と言う意味で、
アルノ川沿いに拓かれた街の一地区を指す。
フィレンツェからローマに向けて南下すること約50キロ。
電車だとレジョナーレ(各駅停車)で1時間、ディレット(快速)で30分で
こじんまりとしたサン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ駅に到着。
ルネッサンス初期の天才画家マザッチョはこの街出身の画家。
生家が残り、美術館となっている。
丁度ラ・ヴィータ・エ・ベッラの映画で有名になったアレッツォとフィレンツェの中間に位置するイタリア中部の心臓と言っても過言ではない地区である。
何故なら、グッチ、プラダ、D&Gなどイタリンモードの多くのブランドがこの地区の中小の工場や職人にその製造を依頼している。デザインはミラノで生まれ、この地でその艶やかなイタリアンモードは容になっていく。この地区無くしてイタリアンモードは語れない。
余談ではあるが日本のイタリアからの輸入品のトップ品目はバック。そのトップの輸入率は10%を占める。その大半がこの街から日本のブランドショップに直送されて行く。
これも余談ではあるが、先日来話題のナポリの北郊外のカゼルタ、カモーラ、クランなどこの地区のマフィアが牛耳るイタリアンモードは主にテキスタイルの洋服。
素材はミラノ北部で製造され、カゼルタでテキスタイルされ洋服の形となり、中国の様々な港からナポリ港に着くメイド・イン・チャイナと共にイタリア北部に再送される。
マフィアのビックに成るには洋服とセメントを抑える。これが又イタリアらしい。
ミラノはイタリアの頭脳、フィレンツェ郊外は手、ナポリ北部が差し詰め足という感じだろうか・・・。
イタリアの分業、問題の一部を垣間見る思いである。
話は戻ってこのサン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ。
フィレンツェの「実の子」という形で発生した街である。
歴史は古く、この街の開発は既に1285年にフィレンツェ評議会で議論され、1296年討議に入り、1299年には当時の百人議会で決議された。
この街はフィレンツェの衛星都市という、自国の防衛や領土拡張の意味合いよりも、当時の政府と地方貴族による封建支配の摩擦を緩和する目的で形作られた。
そこに元貴族ペルッツィが流れ着くというのも何かの因縁を感じさせる。
第二のフィレンツェとなったこのサン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ移住の促進の為に、封建制度からの解放と10年間の納税義務の免除が約束されていた。そのため住民は増大していった。しかしその結果として領主は拡張された領土を耕作する人材を失い、封建制度の衰弱に拍車をかける事となった。
そして建設されて間もなく、ウベルティーニ家、パッツィ家、タルラーテイ家などのギベッリーニ派や皇帝エンリコ7世などによる襲撃を防御しなければならなくなった。
そして波乱の14世紀を越えてもヴィスコンティに雇われたベルナルディーノ・デッラ・カルダの傭兵部隊や、パッツィ家の陰謀の一連に起因しシスト4世の教皇派がメディチ家に対して行った1478年の戦争、その後メディチ家の復興など波乱に満ちた中世を過ごす。
15世紀、17世紀に流行したペスト、1457年と1557年のアルノ川の氾濫、そして1703年の復興とその後も波乱に満ちた歴史を辿る結果となった。
そして最大の転機はイタリア統一前夜1848年の大公命令によるサン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノのアレッツォへの行政権の移行。
多くの住民の反対を押し切る形で施行されたこの変革で間違いなくヴァッレ・ダ・アルノ全地域の権力の喪失を意味した。
フィレンツェを懐かしむ感情は今でも「マルゾッコの獅子」の銅像に表れている、
この獅子は街の中心コルソ・イタリア通のそのまた中心のコムーネの前に置かれ、未だにフィレンツェの方向を見続けている。ちなみに今はレプリカが置かれ、本物はコムーネ内に所蔵されている。
記事&写真提供: Peruzzi 白川さん
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フィレンツェの周りにはこんな風に歴史の刻まれた街が散在しています。
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