特派員記事 2008.05.15

ペルッツィ・紋章3
ペルッツィ家の栄光と没落に見るフィレンツェの変遷。

日本で有名なフィレンツェの貴族と言うとはやはり、メディチ家。しかし彼らも元を正せばフィレンツェ北部ムジェッロ(今はモーターレースで有名になりましたが)の農民の出。そしてその追い落としに躍起になったのがパッツィ家ピッティ家

フィレンツェ貴族はルネッサンスの擁護者で、ルネッサンス期はフィレンツェがshine一番光り輝いた時代だった事もあり、世界に対しての影響力と権力を手にした大公を排出した彼等にのみスポットが当たりがちですが、その彼等の地盤を築いたのが先日来ご紹介 したペルッツィを初めとするストロッツィバルディアッチャイウォーリなど12-13世紀に繁栄しフィレンツェを作り上げた貴族達。

又芸術もミケランジェロダ・ヴィンチボッティッチェリにばかりスポットが当たりますが、実際彼らの土台を作ったのは、かのマザッチョ

そう日本ではあまり一般的には知られていない彼等が今日のフィレンツェを作ったと言っても過言ではありません。
その本当のフィレンツェをそろそろ僕達日本人は知っても良いのでは無いでしょうか。

ガイドブックだけに載っているフィレンツェに飽きた方々は、この13世紀迄のフィレンツェも是非ご覧下さい。


ペルッツィ・宮殿5
栄華を極めた1300年代。
その様子は今もフィレンツェのvia Anguillaraからvia Dei Benciを貫く形で残るPalazzo Peruzziに見る事が出来ます。


ペルッツィ・紋章1
入り口には、その当時まだまだ新興貴族であったメディチとの婚姻を示す、両家を併せた家紋が飾られ、当時の彼らの存在の大きさを垣間見ることができます。




ペルッツィ・宮殿2
そしてパラッツォに入って突き当たると、中庭の様な大きな空間が。
これがhorse馬の水飲み場。
それが当時のまま残っているのも驚きですが、その広さは又彼らの権力の大きさを象徴しています。



ペルッツィ・宮殿4
そしてそこから階上に上がると、歴代の当主の彫像や絵画、そして礼拝堂があり、そこにもまた歴史の重さを感じます。


ペルッツィ・胸像1
ペルッツィ家は代々フィレンツェの司法行政長官を輩出。

←PACINO D’ARNOLDO(1297年当時)


ペルッツィ・胸像2
そしてSIMONE(1363年当時)は→
ペルッツィを代表する当主。



この宮殿は先日のスタイリッシュバール「OIBO」 からシニョリーア広場に向かう道を50メートル行った右側すぐのところにあります。
かつての繁栄の地の近くに返り咲いた彼らの執念たるや、想像を絶するものがあります。

しかしこの宮殿が栄えた14世紀も後半になると暗雲。thunder

まずイギリスの百年戦争。どの時代もそうですが、戦争ほど儲かる出来事はありません。
しかし、その投資が吉と出るか凶と出るかによって、その後は大きく変わります。
ペルッツィをはじめ多くのフィレンツェの富豪達はイギリス王エドワード3世に戦費の貸し付けを行いますがその回収がままならず苦境に立たされます。shock
そして、イギリスに肩入れし過ぎた事により、フランス王からはヨーロッパの商圏から排除され、ついには多くが破産に追い込まれます。wobbly

当然その当時フィレンツェの中心的存在であったペルッツィもその渦中に巻き込まれます。

時を同じくしてフィレンツェ名物の政変も起こり日和見主義のフィオレンティーナ達の信用(というか人気)を失った彼らは全てを失います。

いつの世もイタリア、特にフィレンツェはイタリア国内の商圏だけでは立ち行かず海外への依存度が非常に高い。それは現在も同じで、今は日本人、韓国人、中国人を無視してフィレンツェの繁栄維持は不可能です。


そのペルッツィ、14世紀後半の破産に伴い、多くは街を離反する事になります。そしてその一部が奇しくも自分達が13世紀後半から始めた自国防衛の為の衛星都市建設によって出来た街「サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ」に辿り着きます。


ペルッツィ・紋章2 次回はこの衛星都市「サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ」について紹介します。
ペルッツィを語る上で決して省けないこの街の生い立ち。
そして今現在のこの街の楽しさをふんだんに織り交ぜてお届けします。


記事&写真提供:Peruzzi 白川さん

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