本日は特定非営利法人AMDA社会開発機構でNGO職員として働く小林麻衣子さんに、
私が、当団体の職員として初めてネパールの地を踏んだのは、2008年7月20日。奇しくも、私の20代最後の日である。
その翌日、めでたく30代の幕開けを迎えた日、私はルパンデヒ郡ブトワル市にあるシッダールタ母子専門病院(子ども病院)を訪れていた。内戦によって長らく活動が途絶えていたこの地で、「子ども病院と連携して、市街地から遠隔にある農村地域で、お母さんと子どもの健康向上プロジェクトを実施すること」が私のミッションであった。
それから4年間が経ったので、私自身もその分歳を重ねた。けれども、4年間をかけて歩んだネパールでの道のり、また一緒に歩んだスタッフら仲間たちの成長は、「4歳」以上のものがあると感じている。今回の記事では、仲間のひとりであるスニル氏を皆さんにご紹介したい。
1. 小さな部屋から始まった
スニル氏と出会った時、彼は私より3つ若く新婚ほやほやで、いかにも「おぼっちゃん」という雰囲気だった。
ミッション遂行のために私たちに与えられたのは、病院事務局棟の小さな一室で、もとは倉庫だったところだ。机がふたつ並べて置かれただけの、コンピュータもなく(私が持参したノートPCを除いては)、電話もインターネットも通じない部屋だったが、私以外、誰もろくにコンピュータを扱うことができなかったので問題はなかった。その代わり、いつもチーム(私とスニル氏を含めて5人のチームだった)で議論をした。
スニル氏は甘いマスクの上に口が達者で、ネパール語がおぼつかない当時の私は、自分が言いたいことを言葉にできなかったり、言いくるめられたりすることが多かった(その対抗心を糧に私のネパール語は飛躍的に上達したのだから、感謝すべきなのであろう)。
だから私は、様々なことを行動で示して見せた。人づての話を鵜呑みにせず、自分の目と耳で事実を確認することや、村で女性たちと話すときは彼女たちと同じ地面に座ること、思う教材が手に入らなければ自分で作ること。
ひとつ印象に残っている教材がある。村の女性たちに「栄養」というトピックで保健教育をする際のこと、食材が描かれたカードを使って3大栄養素に分類するゲームをしよう、ということになった。しかし、その様なカードは市販されていない。そこで私たちはバザールに繰り出し、ありとあらゆる食材を撮影し、現像した写真をラミネート加工して、お手製のカードを作成したのだった。コミュニティではカードを配られた女性たちが、自分が持っている食品カードがどの栄養群に属すかを考え、「体をつくる神様(たんぱく質)」「体を動かす神様(炭水化物)」「体をまもる神様(ビタミン)」に扮した神様たちに貼り付ける、といったゲームを行った。女性たちはゲームに大喜びで、活動は盛り上がった。「私の発案はよかったでしょう?」と得意気な私を横目に見ながら、スニル氏は、女性たちが馴染みやすいように「栄養の歌」を即興で作り、実にええ声で歌い出し、女性たちの心を一気につかんでしまうのだから、まったくかなわない。
2. 転換期の3年目
2010年から11年にかけて、ネパール事業は大きく転換した。それまでは、小規模な予算で16カ所の限られたコミュニティだけで活動をしていたが、2010年11月に、JICA草の根技術協力と日本NGO連携無償資金協力よりそれぞれ資金を頂戴した二つの事業が始まり、資金、活動エリア共に、規模が一気に2倍以上拡大したのだ。コミュニティの活動だけではなく、子ども病院のサービス向上を目的とした、病棟建設や医療従事者育成の事業が始まったのもこの頃であった。5人だった私たちのチームは、「コミュニティ活動スタッフ」と「病院スタッフ」に分かれ、スニル氏はコミュニティ活動スタッフとして残った。病院の小さな一室だった事務所も4部屋ある一軒家に移転し(お陰でスニル氏は、片道40Kmの道のりを毎日バイクで通勤しなければならなくなった)、コミュニティ活動に従事するスタッフの数も2倍になった。私たちは「チーム」から「組織」に変わりつつあった。
私自身の課題も、村の女性たちがいかに楽しく保健教育に参加するか、ということから、プロジェクトを効率的に運営し、且つ事業としての成果を出していくために、いかに組織を作り動かしていくか、ということに変わっていった。事務所の中でデスクワークをしながら、コミュニティのことを遠くに感じ、もどかしく思う日々が続いていた。
3. 変わること。変わらないこと。
事業の規模は大きくなり、私自身の役割も変わったが、プロジェクトの基本姿勢は変わらない。村の女性たちが保健教育を通じて知識を向上し、彼女たち自身の意思で貯蓄活動や保健啓発活動を実施していけるようサポートを行う。地道な活動の中で、お母さんたちが子どもの体重の目盛りを読めるようになったり、貯蓄活動を続けている女性たちを中心に、村人がお金を出し合って村内のインフラ整備を始めたり、というような変化が、僅かずつだが確実に見え始めてきた。
スニル氏が言うには、「コミュニティの変化が僕の原動力」なのだそうだ。事業が拡大し、体制が変わりつつある中で、彼自身も急激な変化にとまどいを感じたと言う。求められる役割をこなせるのかという不安や、自分の思う通りに動かない「組織」への歯がゆさを日々感じていたそうだが、それを支えたのがコミュニティの成長だった。
一方、村の女性たちの成長は、裏を返せばスニル氏自身の成長である、と私は思う(もちろん、彼だけでないことは言うまでもない)。コンピュータもずいぶんうまく操るようになったし、数十種類の教材は自分でデザインしたものを印刷業者に発注する。部下を10人も抱えるようになった彼は多忙だが、できるだけコミュニティに足を運び自分の目で現状を確認するようにしていると言う。
現在はカトマンズに構えた事務所に常駐する私だが、先日、久しぶりにスニル氏と一緒にコミュニティを訪ねた。村の人々と肩を並べて座り、接する人を誰彼となく笑顔にさせる姿は相変わらずだ。その彼が私に言う。「目標があってそれに進んでいく以上、ずっと同じ形ではいられない。でも僕にとっては、競い合ったり衝突したりしながらも、みんなで闇雲に活動に取り組んだ時間が原点だ。全てはあの小さな部屋から始まったんだ。」こんなことを言って、私をするすると泣かせてしまうのだから、やっぱり、まったくかなわないのである。
4. 4年間で得たもの
国際協力におけるNGOの活動と言うと、農村やスラム等に住む「住民(そして彼らは一様にして「貧しい人」だと思われている)」に焦点があてられることが多い。しかし実際は、「住民(言うまでもないことだが、豊かな人も、貧しい人も、謙虚な人も、ずるがしこい人もいる)」も含め、事業の実施に関わる全員がアクターである、と私は思う。事業の実施者、受益者、またそれを取り巻く関係者それぞれが互いに関わり合う中で、悩み、衝突し、気づきを与え、また逆に学びを得て、成長を繰り返していく。
私は幸運にして、様々な立場のアクターたちと直接関わる機会を得、どのアクターが欠けても活動が成り立たないことを、自身の経験をもって認識することができた。「お互い今は偉そうにしてるけど、昔はさ・・・」などと言い合える仲間がいることも、4年間歩み続けたことで得た宝物である。
とはいえ、ネパール事業は今も成長段階である。なにせまだ、たったの「4歳」なのだ。
国際協力の醍醐味は、人と人とのかけがえのないつながり。
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