サワディーカップ、ピサヌロークのメオダムです。
今日は、ピサヌロークの南、130kmほどのところナコンサワンにある慰霊碑を紹介します。
12月08日は太平洋戦争が勃発した日で、むかしはテレビとかでもたくさんの関連番組が組まれていましたが、開戦からもうじき80年になろうとしているためか、だんだんと影が薄くなっているようですね。
タイの国の中にも、戦争で犠牲になった人たちの霊を慰めるための慰霊碑が各地にあります。
カンチャナブリには、泰緬鉄道建設で犠牲になった方々の慰霊碑(⇒)があります。これは日本軍が戦争中に建設労働者と捕虜の犠牲者に対する慰霊碑です。
バンコクからカンチャナブリへ日帰りするツアーで、ここを訪れるツアーはあまり多くないようですが、機会があれば、是非訪問されて、手を合わせていただきたいところです。
また、チェンマイで週末の夜市で人気のあるウアライ通りにあるムーンサン寺にも慰霊碑があります。
多くの犠牲を出したインパール作戦よりタイへと退却する途中で、栄養失調やマラリヤなどの風土病で命を落とした日本兵の霊を慰める慰霊碑です。
さらに、いまでも僻地のためなかなか行きにくいところですが、メーホンソンのクンユアムにも、地元の方の尽力により、当時の資料を展示した博物館とともに慰霊碑があります。
今日ご紹介するのも、先の大戦に関連した慰霊碑です。
しかし、戦争中の犠牲者ではありません。
1945年の終戦により、当時タイ国内にはミャンマー方面から退却してきた多くの日本軍の将兵をふくめて、すべて連合軍によって武装解除され、収容所へ収監されます。
また、兵士とともに物資を運んだりして苦労を共にしてきた軍馬たちも収容所に集められました。
収容所でも、兵士は馬の世話に当たり、馬は戦友であり、家族でもあったようです。
平成生まれの人は知らないかもしれませんが、愛馬行進曲(愛馬進軍歌)という軍歌があります。
これは兵士と馬とが苦楽を共にし、軍歌としては珍しく微笑ましい情景を歌っています。
しかし、終戦の翌年、1946年に連合軍は命令を出します。
「馬はすべて殺処分するように」
馬も日本軍の軍装備であるから、破壊廃棄対象であるというのが、その命令の理由とされています。
兵士たちは、馬を殺処分することが忍びなく、連合軍へ嘆願します。
「馬は、この土地の農家に払い下げれば、農民たちの役に立つので、殺処分だけは勘弁してほしい」
しかし、この嘆願は聞き入れられず、馬は世話を担当してきた兵士たちによって射殺埋葬されたそうです。
その場所が、当時の日本軍収容所のあったナコンサワンの「ワット シーサワーン サンカーラーム」というチャオプラヤー川沿いのお寺がある場所です。
タイだけで1946年2月に殺処分された馬は1000頭以上だったそうです。
徴用され、戦火をくぐり抜け、重い荷を背負ってくれてた馬の頭へ向けて引き金を引かされる兵士たちの心情はどんなものだったのでしょうか。
また、一頭ずつ仲間が撃たれて倒れていく、その順番を待つ馬たちは、何を考えていたのでしょうか?
この殺処分に立ち会った獣医師の手記からの抜粋が、ウェブ上に掲載されていましたので、そのURLだけをここに紹介させていただきます。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~thai/page056.html
メオダムは涙なしには、読めませんでした。
ナコンサワンは、物流が盛んなこの辺りでの中心都市ですが、有名な観光地があるわけでもなく、日本人にはあまり知られていませんが、戦時中から戦後にかけて、ここにはたくさんの日本の兵士がいた場所です。
メオダムも、バンコクとピサヌロークの往復で通り過ぎてしまうことの多い土地です。
ここで苦楽を共にした兵たちによって、殺されなければならなかった馬たちに、たまには横道へそれて、手を合わせてくなくてはと思いました。
ワット シーサワーン サンカーラーム寺(วัดศรีสวรรค์สังฆาราม)は、バンコク方面からだと、ナコンサワンの街へ入る手前、ジラパット陸軍基地の裏手にあります。
ナコーンサワンという街の名前の意味は、"天国の街"という意味です。