カメハメハ5世が後継者を指名せず亡くなり、カメハメハⅠの直系の血筋が絶えてしまった為、他の親戚筋の中でついに選挙が行われる事になります。そして初の選挙で選ばれたのがルナリロ王です。4世、5世と違って、アメリカ人びいきだったと言われ、内閣はがらりと変わってアメリカ人で固められました。 実際稼動するのはこの次のカラカウア王の時になるのですが、軍の真珠湾使用とハワイ産の砂糖の無関税化の相互条約が締結されます。(アメリカ軍に軍港として真珠湾を使用させる代わりに砂糖の高い関税をなくしてもらうと言う取引)5世、6世、7世ともに推進派だったんですね・・・・。この時ハワイアンは反対しました!

あ~もう、この先どんどんアメリカ人のやりたい放題は続いて行きます・・・。
1874年ルナリロ王は亡くなります・・・。
王族の墓がヌウアヌにありますが、ルナリロ王だけは民衆と近い場所にいたいと言う本人の希望で、宮殿の斜め向かいにあるカワイアハオ教会にお墓があります。
また次の後継者を指名せずルナリロ王が亡くなった為、カラカウアも選挙で選ばれました。
この時、オアフ島知事はジョン・ドミニス(リリウオカラニ女王の夫)、ハワイ王国外務長官はチャールズ・ビショップさんでした!
カラカウア王の性格は陽気で社交的で、色々な物に興味がありました。そんなカラカウア王は、諸外国の様子を知りたいと乗船名簿を手に入れ、色々な人達と会食をしては異国の情報を得ていました。この当時はTVで世界のニュースが見れたりしないですもんね。
そして海外にとても興味のあったこのカラカウア王は、国王で初の!世界一周

その時、日本にも立ち寄りました。この方大の日本びいきで、なんと皇室に縁談を持ちかけたほど!でも丁寧にお断りされてしまったそうですが、その代わり官約移民制度で多くの日本人がこのハワイへやって来る様になりました。ちなみに一番移民が多かった県は広島でした!
このイオラニ宮殿を建設したのもカラカウア王です。お城の周りにはこのロイヤルガード(お城専属の警備をする兵隊)がいました。

宮殿の中をお見せ出来ないのが残念ですが、当時それはそれは素晴らしい調度品で飾られていました。

残念ながら、なぜ当時は・・・・となってしまうかと言うと、王朝崩壊後、新政府の資金作りのために、イオラニパレスにあった全ての物は競売にかけられてしまいます。調度品だけでなくカーテンや絨毯までも!!バスマットサイズにして切り売りされてしまいました。
身ぐるみはがされ、ボロボロになってしまったイオラニ宮殿を現在は修復し、切れ端と写真をたよりに絨毯とカーテンは復元されていますが、素材は当時の様にはいかないので、見た目だけの復元となっています・・・・(涙)
また調度品は60%まで買い戻しましたが、40%が未だ見つかっていません。室内に置かれている写真には輝かしい品々が写っているのですが、中はがら~んとして今は豪華な品々はありません。

ダンスも好きで時折ダンスパーティーを開いていました。夜9時頃になると『トントン』と、カピオラニ王妃の部屋をノックし素敵なドレスを身にまとったカピオラニ王妃と一緒に下の階の王座の間へ行らっしゃいました。ロイヤルバンドの奏でるミュージックでダンスを楽しまれます。そしてお腹がすくと食事をし、また踊り、夜中の2時、3時頃まで楽しんでいらしたそうです。
ですから朝はちょっと苦手


また当時には珍しい水洗トイレ、バス、ビデなどを取り付けるなど、イオラニ宮殿は最先端を行くお城でした。
さて情勢ですが、カラカウアはだんだん窮地に追い込まれて行きます。
ハワイ王国も終盤です。
1887年、白人によるクーデターが起きます。当時白人は全体の30%ほどしかいませんでしたが、サトウキビ成金となった彼らに怖いものはありません。ハワイを共和制にしよう!と立ち上がります。どんどん力を付けて行き、国も動かしたくなったわけです。自分達の思い通りになる国を!
そして、クーデター後、強制的にこの新憲法に署名させられます。カラカウア王は議会の承認なしに政治関与できなくなりました。ハワイアンとアジア人には選挙権があたえられなくなりました。
そして、1890年渡航先のサンフランシスコで持病のリウマチの為帰らぬ人となりました。
※王の葬儀は王座の間で行われました。その時の写真が宮殿内に展示されています。
カラカウア王は次の王位継承者に自分の妹であるリリウオカラニを指名していました。1891年に兄の死亡により王位を継ぎハワイ王朝最後となる8代目女王となりました。

羽がダイヤで出来ていてとっても綺麗です!なぜ知っているかと言うと、イオラニ宮殿の展示室で見ることが出来るからです~。
さぁ、小さい頃から王族の一員として、華やかな世界にいたリリウオカラニでしたが、カラカウアの死後7ヵ月後には夫も亡くなり、孤独になりました。
そして奪われた王の権限とハワイアンに選挙権を与え、アメリカ人達からハワイ王国を取り戻したいと考えて、その新憲法発布しようとしますが、彼らの猛反発にあいます。


コレぞ幸い!と、臨時政府はクーデターの首謀者として女王を逮捕!リリウオカラニ女王は自分が座っていた王座の間で、裁判にかけられ実刑を受けます。昨日まで座っていた女王の席とは違い、被告席です・・・。
ハワイアンの血を一滴たりとも流させたくないと200人の命と引き換えに実刑を受け、女王の座を降りるのです。


幽閉中は新聞を読むことも許されず、差し入れされる食べ物に包まっていた新聞紙をこっそり盗み見ていたりしたそうですが、それもすぐに見つかってしまいます。
紙と鉛筆は与えられたので、この時自分の頭の中にある音をたよりに、作曲

女王は廃位宣誓の書類にサインを強制的に強いられ、女王の権利は剥奪、一般市民として生きる事を条件に釈放されます。
これで完全に王朝は崩壊となります。

1898年にマッキンレー大統領が合併にサインをしハワイ国旗が降ろされ、星条旗が揚げられました。この時、多くのアメリカ人がイオラニ宮殿に集まっていましたが、ハワイアンはみな家で悲しみをこらえていました。また多くの人がリリウオカラニのいるワシントンプレイスを訪れたといいます。
女王

当たり前です!もともとハワイアン達は王国崩壊など望んでいなかったのですから

そして79歳で亡くなります。 このワシントンプレイスは夫ジョン・O・ドミニスと住んでいたリリウオカラニの家です。彼女がなくなった後は州知事の家として使われていましたが、現在は週に1度一般開放され記念館となっています。
ここには彼女が作詞作曲した有名な曲『アロハオエ』の記念碑も建てられています。
1959年にハワイはアメリカ合衆国50番目の州になります。ハワイ王国はなくなりましたが、ハワイの紋章にはカメハメハ大王とハワイの国旗を持った自由の女神が描かれ、
カメハメハ3世が残した言葉 Ua mau ke ea o ka aima i ka pono『国家の生命は正義によって守られる』が、書かれています。
さて、長くなりましたが最後までお付き合い頂き有難うございました。8代に渡る短いハワイ王朝の歴史をご紹介させて頂きましたが、いかがでしたか?
これでも大分短くしたので、コレを読んで興味が沸いた!と言う方は是非レアレアWEBに遊びに来て下さい。端折った部分を入れて、近日公開予定したいと思います!
またレアレアマガジン2008年1月1日号からもハワイ王朝をシリーズでお伝えして行く予定です。今回登場出来なかったプリンセスカイウラニ編も予定していますので、お楽しみに!
それとこれはちょっと余談になりますが、現在レアレアWEBの編集後記にて、この取材に行った時の話で、『最後の女王リリウオカラニに遭遇!?』と、書いている間に起こったエピソード『一斉配信 第四弾~』にて不思議体験を告白しています!よかったらどうぞこちらも見に来て下さい。(トップ画面のLeaLeaWEBにも遊びに来てねをクリックするととレアレアトップ画面へ来る事が出来ます!)
今回ご紹介したイオラニパレス、エマのサマーパレスを見学出来るツアーがあります。
●イオラニ宮殿とハワイ王朝物語ツアー
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※王族写真協力 Archives state of Hawaii , Bishop Museum,
Photo & Illustration by Tomottch