榎本武揚
函館五稜郭で土方歳三と共に新政府軍と戦った男。
蝦夷共和国総裁。
福沢諭吉に「やせ我慢を知らぬ男」と揶揄された男。
外務大臣。
この人がメキシコに深く関わりがあるのです。
1897年に35名の移民団がメキシコに向けて横浜港を出向しました。これは日本から中南米に向かった最初の移民団です。その移民団を派遣したのが「榎本殖民日墨協働会社」です。榎本武揚が海外留学、北海道開拓といった自身の経験をいかし、移民を計画したのが始まりです。
移民というとブラジル移民がよく知られておりますが、ブラジル移民よりも約10年前に行われているのです。
榎本移民団の監督者であった草鹿砥寅二が愛知県の出身であったことから、この契約移民大半は愛知県出身者で占められました。
そして、この最初の移民団もやはり非常なまでの苦労を強いられたそうです。
1897年3月24日に横浜から出航し、23日後にサンフランシスコに到着。船を乗り換えてメキシコのアカプルコに向かいました。この航海も非常に過酷なもので、アカプルコ到着の前に一人の男性が亡くなっております。アカプルコ到着後さらに船を乗り換えて、日本を出てから48日目にチアパス州のサンベニートに到着。
上陸はしたが、そこから植民地の入り口になるタパチュラという町までは25キロ、そこからさらに100キロ離れたところに植民地があるのだという。一行は人家もない道を、飲み水も持たず、猛獣を警戒しながら歩き続け5月19日に植民地に入りました。日本を出発し約2ヶ月ごのことです。そして、1897年5月19日を日本人入植記念日と定めたのでした。
しかし、この苦難の果てに植民地で一行が見たものは茫々たる岩山であった。
そもそも榎本移民団の目的はというと、珈琲栽培であった。
しかしながら、当時の日本で珈琲が知られているわけもなく、移民団も横浜を出航した船の中で、黒い液体を見せられ、それが珈琲というものだと知ったそうです。日本での募集の際に言われていたことは、「珈琲栽培に適した肥沃な土地」が与えられるということでしたが、その肥沃な土地は何処にも見当たらないのであった。
続く
え~
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