
前回出題された問題、
「メキシコの地に初めて足を踏み入れた日本人は誰でしょう?」
に関して、
正解を
支倉常長
としましたが、その回答に待った、がかかりました。
歴史に名を残した人物で、初めてメキシコに渡った日本人は
支倉常長である。これは間違いないと思われます。
しかし、彼の足取りをたどっていくと、実に興味深い歴史的事実と出会います。
『ヨーロッパに消えたサムライたち』太田 尚樹 著、
を読み進めていくと、
何と1614年1月メキシコのアカプルコに到着した、支倉常長一行を待ち受けていた一人の日本人がいたのです。
正確には、待ち受けていたのかどうかはわかりません。しかし、日本を出帆した一行の名簿の中にはなく、メキシコに到着後に、支倉一行に一人加わったことが記されております。
その名も、フランシスコ モンターニョ。。。
アレッ??
外国人??
(ひょっとしたら名前間違ってるかも知れません。数年前に呼んだ本の薄い記憶をたどっているもので。。。モンターニョという苗字は間違いないです。名前は確かフランシスコだったような気がします。誰か知ってたら教えてください。。。
)
と、思いきや、ヨーロッパのマドリッド到着後に彼が日本人であるという記録が残っているのです。
モンターニョは、日本語はもちろんスペイン語にも長けていたということです。
それが支倉常長の目に留まり、通訳として同行することになったのでしょう。
しかし、彼は何故メキシコにいたのか?
支倉より遅れてやって来たということは考えにくいです。なぜなら、日本を出帆しメキシコに到着した船は恐らく、支倉一行を乗せた船サン フアン バウティスタ号が最初でしょう。それも約3ヶ月の長旅です。
ということは、支倉一行よりも先に来ていたということになります。
何故?
どのように?
いつ?
全く分かりません。
著者の予想では、徳川家康によって送られた間諜(ふ、古い)ではないかと記されております。
よく考えれば、仙台藩主伊達政宗以前に、その他の武将が海外に興味を示さないわけが無い。
1549年フランシスコザビエルが日本に到着したことにより、洗礼を受け名前を変えて、海外に出た日本人もたくさんいるのではないか。天正遣欧少年使節団も1582年にヨーロッパへ派遣されている。
謎は深まるばかりですね。
その後、モンターニョはヨーロッパまで支倉一行に同行したのですが、ヨーロッパから戻る際の名簿に彼の名前がありませんでした。
彼が何処に行ったのか?
実は、彼の名前がマドリッド近郊のある教会の名簿に残っていたのでした。
その名簿は、その教会で死亡した人の名簿でした。
恐らく、支倉は最初からモンターニョのことを深く信用はしておらず、マドリッドで全ての用件が済み引き上げる際に、モンターニョのことを見捨てたのであろう。そして、彼は教会を頼って行き、そこで餓死したのではないか。。。。
その名簿に彼が日本人であったことをし示す「JAPON(日本)」と記されていたそうです。
へ~
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